アリストテレスの実践知入門

● なぜ徳の議論が、現代において重要になるのか?

「18世紀のイマヌエル・カントから20世紀のジョン・ロールズに至る近現代の政治哲学者に よれば、われわれの権利を規定する正義の原則は、美徳(すなわち最善の生き方)についてのいなかる特定の考え方をも土台とすべきではないという。公正な社 会とは、各人が良き生き方に関するみずからの考え方をも土台とすべきではないという。公正な社会とは、各人が良き生き方に関するみずからの考え方を選ぶ自 由を尊重するものなのだ。/したがって正義をめぐる古代の理論は美徳から出発し、近現代の理論は自由から出発すると言えるかもしれない」マイケル・サンデ ル『これから「正義」のはなしをしよう』鬼澤忍訳、早川書房、p.17、2010年

御存知のようにサンデルはコミュニタリアン(共同体主義)で、ロールズのような個人の自由を 最優先するリベラリストではなく、むしろ、共同体の価値(サンデルの場合は「家族」)すなわち、その成員がもつ美徳=徳を重視する立場をとります。文化人 類学者のである私(池田)もまた、世界のさまざまなコミュニティに身をおいて調査する研究者ですので、どうしても、個人がどのように共同体のなかで実践 し、社会の規約を守ったり逸脱したり、また改変したり新たに創造したりしていく有り様(=実践)に強く魅かれます。

アリストテレスは、そのようなあり方を指摘した人のひとりです。もちろん古代ギリシャの人の 市民は奴隷制を容認しましたし、女性の参政権などについても、近代のそれとはまったく「異質な」考え方をします。おまけに、人間のあり方のみならず、世界 のあり方についても、我々とは非常に異なる思考法をとります[→アーレントの「公 的領域と私的領域に関する議論」に関する議論]。にも関わらず、アリストテレスに拘るのは、中世に彼の哲学がイスラーム世界からの再輸入され てこのかた現在にいたるまで、多様に多角的に検討されてきたからです。アリストテレスを、現代のある異文化社会の物知りなインフォーマント(情報提供者)だと考えると、それを理解することを通して、我々の社会の 成り立ちを再考するきっかけになるからです。

アーレントの「公 的領域と私的領域に関する議論」に関する議論
プラトン『国家』(第1巻)における正義の技術と定義の違い
トラシュマコス(ソフィスト):正義とは、強者の利益になることである――この説明を通して、正義というものの記述を試みる。
ソクラテス:正義とは、あらゆる人間がその人に相応しいもの(=徳)を捉え、それを実行することである――この説明を通して、正 義というものの定義を試みる。
「それはともかく〈正義〉は徳(優秀性)であり、知恵であること、不正は悪徳(劣悪性)であり無知であることに、ぼくたちの 意見が一致したのでぼく(=ソクラテス)は論をすすめることにした)」(350D:岩波文庫版、藤沢令夫訳(上)p.97)。「正義は協調と友愛をつくり 出すものだからだ」(351D:同書、p.100)。「討論の結果ぼくがいま得たものはと言えば、何も知っていないということだけだ。それもそのはず、 〈正義〉それ自体がそもそも何であるのかがわかっていなければ、それが徳の一種であるかないかとか、それをもっている人が幸福であるかないかとかといった ことは、とうていわかりっこないからね」(354C:同書、p.110)。
● 『ニコマコス倫理学』におけるアリストテレスの議論の進め方

アリストテレ スは人間の徳を、性格の徳(エティケー・アレテー)と思考の徳(ディアノエティ ケー・アレテー)にわける。前者には、気前の良さ、節制がある。また後者には、知恵、理解力、思慮(=実践知)がある。まず「人生の目的」という仰々しい タイトル[いったい誰がつけたのか?]による第1巻からはじまり、第2巻から第4巻までは「性格の徳」について議論がなされている。第5巻は「正義と不 正」つまり今日でいうところの司法的判断に関わることに議論が費やされている。第 6巻が、我々が焦点をあてたい思慮などについて書かれている。つまりアリ ストテレスによるところの「思考の徳」に関する議論がここにある。第7巻は抑制のなさについて書かれ、これは10巻で述べられる快楽の議論と関連している ようである。他方、第8巻と9巻は友愛について書かれており、古代ギリシャの人たちが友愛ひいては、性格の徳[すくなくとも私=解説者はそう分類されると 信じる]に深くかかわる実践行為をどのように理解していたのかについて有益な議論を提供するだろう。第10巻は、ニコマコス倫理学の講義が、次に『政治 学』に連なることを示唆して「それでは最初のところから論じることにしよう」(1181b, p.496)という言葉で終わる。

『エウデモス倫理学』では「なぜなら哲学者は思慮と真理の観想とに、また政治家は徳から出た 美しい行為に専念することを、享楽者は肉体的快楽に耽溺することを欲するからである」とのべ、思慮は哲学者の得意?領域として捉えている。

『ニコマコス倫理 学』第6巻(英訳:W. D. Ross)

● ここでいう実践知とは、思慮(知慮)あるいはプロネーシス/フロネーシス (φρονησιζ)のことである。

● 魂(たましい)には、理性的な2つの部分がある(1139a*)

(1)エピステーモニコン(知識的部分)

他の仕方でもありうる[→技術的な知に関する?]

(2)ロギスティコン(理知的部分)

熟慮**することに関係、(学問的知識は)他の仕方ではありえない。

* この表記はアリストテレスの解説本によく登場する校注の入った底本であるベッカー版のページ数と欄(a[左]とb[右]に分かれる。またこの表記の後には 行数が入ることもある。私は、2002年の朴一功[ぱく・いるごん]訳の参照にしたので、ベッカー版の行数については記載していない。)

**熟慮すること=ブーレウエスタイ

● たましいの中には、人の行動と真理を支配するものが3つある。

1. アイステーシス(知覚)――動物はもつが、人間のプラークシス(行為)には与ら ぬ
2.ヌース(知性)
3.オレクシス(欲求)――これには、追求と忌避がある
● 2つの思考

1.観想に関わる思考(テオーレーティケー・ディアノイア)―善し悪しは真偽にあり!
2.行為(プラークシス)に関わる思考―真理が正しい欲求に一致するか (1139a30)
● 魂が肯定/否定することにより、真理に到達する際の状態を5つ想定しよう。(1139b)

1.技術(テクネー)→「真理」には与らない。1140aより解説が始まる
2.学問的知識(エピステーメー)*
3.思慮=実践知(プロネーシス)*[→「他のあり方でもあり得る実践知」と理解すべ きか]
4.知恵(ソピアー)* →技術の卓越性(アレテー)p.269
5.知性(ヌース)* →原理を直接把握する能力で、直観的なもの。p.269
*:われわれを真理に到達させ、決して誤らせないようにする魂の4つの状態(学問的知 識・思慮・知恵・知性)。p.268

朴は、知恵=ソピアーとは「制作にも行為にもかかわらない、純然たる観想知」と言い (p.271)、ロスは、ソピアーを哲学的知恵(philosophical wisdom)と翻訳しているという。

● 第6巻第5章 思慮=実践知=プロネーシス(1140a)

「『思慮(プロネーシス)』については、われわれがどのような人々を『思慮ある人たち』と呼 んでいるかを見きわめたなら、それによって把握できるであろう」(朴一功訳, p.264)

→思慮=プロネーシス=実践知は、思慮ある人たち(=フロニモス)の、経験に由来してい るようだ。

→他方で、これは現在の経験的方法では方法論的には限界がある。なぜなら、われわれは古 代ギリシャの人たちの生活の実際について、十分に知らないからだ[本ページ末の解説のアームソンの主張を 参照のこと]。しかし、ひるがえってみると、これはアリストテレスの生きた時代の同じ人間にとっても、同様のジレンマを提示する。つまり、偉大なる師(ア リストテレス)が仮に私たちに対して「この人たちは思慮ある人たちである。思慮ある人たちを見きわめ、思慮のなんたるかを把握しなさい」と言ったとして も、私たちが、その思慮ある人たちを観察し、対話し、教えを乞うても、私たちにとって「思慮=実践知」とはなんたるかを、十分に把握できないことすらある からだ(もちろん、上のような活動を積み重ねれば、同じくらい把握できる可能性もあるのだが……)。

適切に熟慮する能力=思慮ある人の性質

たとえば、健康に生きることを考えるのに、部分的なこと(例:体力をつける)を考えるの ではなく、よく生きること(エウ・ゼーン)全体のために考えること。これは、より思慮が深いと考える。

「フロネーシスとは、人間にとっての善悪に関する、ロゴスを伴った、実践的かつ真なるヘクシ ス※である」『ニコマコス倫理学』(vi, 5, 1140 b4-6.)

※朴一功は、別の箇所でヘクシスに対して「性格の状態」という訳語を与えている。下記の引用 を参照のこと

「それゆえ、予期しない突然の恐怖の場面で、恐れることなく平静である方が、はっきりと 予見される恐怖に対してそうであるよりも、いっそう勇気のあるふるまいだと考えられるのである。なぜなら、そのようなふるまいは、むしろ「性格の状態(ヘ クシス)」から出てくるものであって、あらかじめ備えによるわけではないからである。すなわち、予見されるものごとであれば、人は理知的な思考や道理に基 づいて選択できるかもしれないが、とっさの行為というのは「性格の状態」によるほかないのである」(1117a, 10-30)[朴一功訳、pp.130-131]

第6巻5章全文(翻訳:W. D. Ross)
Regarding practical wisdom we shall get at the truth by considering who are the persons we credit with it. Now it is thought to be the mark of a man of practical wisdom to be able to deliberate well about what is good and expedient for himself, not in some particular respect, e.g. about what sorts of thing conduce to health or to strength, but about what sorts of thing conduce to the good life in general. This is shown by the fact that we credit men with practical wisdom in some particular respect when they have calculated well with a view to some good end which is one of those that are not the object of any art. It follows that in the general sense also the man who is capable of deliberating has practical wisdom. Now no one deliberates about things that are invariable, nor about things that it is impossible for him to do. Therefore, since scientific knowledge involves demonstration, but there is no demonstration of things whose first principles are variable (for all such things might actually be otherwise), and since it is impossible to deliberate about things that are of necessity, practical wisdom cannot be scientific knowledge nor art; not science because that which can be done is capable of being otherwise, not art because action and making are different kinds of thing. The remaining alternative, then, is that it is a true and reasoned state of capacity to act with regard to the things that are good or bad for man. For while making has an end other than itself, action cannot; for good action itself is its end. It is for this reason that we think Pericles and men like him have practical wisdom, viz. because they can see what is good for themselves and what is good for men in general; we consider that those can do this who are good at managing households or states. (This is why we call temperance (sophrosune) by this name; we imply that it preserves one’s practical wisdom (sozousa tan phronsin). Now what it preserves is a judgement of the kind we have described. For it is not any and every judgement that pleasant and painful objects destroy and pervert, e.g. the judgement that the triangle has or has not its angles equal to two right angles, but only judgements about what is to be done. For the originating causes of the things that are done consist in the end at which they are aimed; but the man who has been ruined by pleasure or pain forthwith fails to see any such originating cause-to see that for the sake of this or because of this he ought to choose and do whatever he chooses and does; for vice is destructive of the originating cause of action.) Practical wisdom, then, must be a reasoned and true state of capacity to act with regard to human goods. But further, while there is such a thing as excellence in art, there is no such thing as excellence in practical wisdom; and in art he who errs willingly is preferable, but in practical wisdom, as in the virtues, he is the reverse. Plainly, then, practical wisdom is a virtue and not an art. There being two parts of the soul that can follow a course of reasoning, it must be the virtue of one of the two, i.e. of that part which forms opinions; for opinion is about the variable and so is practical wisdom. But yet it is not only a reasoned state; this is shown by the fact that a state of that sort may forgotten but practical wisdom cannot.

● 全体について考えるだけでなく熟慮する人(ブーレウティコス)が、思慮ある人(プロニモス/ フロニモス:φρονιμοζ)である。

人間存在を、倫理性をもった存在(フロニモス)と捉えた。このアイディアは『政治学』におけ る「フロネーシスをもった王」に現れる。フロネーシスとポリティケーは同質。

フロニモスは、ペリクレスのような優れた政治家や社会の統率者のなかにみる。なぜなら「かれ らは自分自身にとっての善、総じて人間にとっての善を考察することできるからである」『ニコマコス倫理学』vi, 5, 1140b 8-10。

● 思慮は学問的知識ではありえず、また技術でもない(1140b)

学問的知識は、他の仕方ではありえない。技術は他の仕方でもあり得る。思慮は、他の仕方でも あり得るものなので、学問的知識ではない。他方、行為(プラークシス)に属する思慮は、制作(ポイエーシス)に属する技術と類において(分類のカテゴリー が別なので)異なる(p.265)。

池田光穂「現場力」を参照 のこと

● 技術(第6巻第4章,1140a~)

他の仕方でもあり得るものには次の2つがある。

(i)つくられるもの=制作=ポイエーシス

ロゴスをそなえた、制作にかかわる魂の状態。

「そもそも『理論』をそなえた、制作にかかわる魂の状態でないような技術など何ひとつ存 在せず、逆に、技術でないような『理論』をそなえた、制作にかかわる魂の状態というのもありえないのだから、『技術(テクネー)』とは、『真なる理論(ロ ゴス・アレーテース)』をそなえた、制作にかかわる魂の状態と同じものである、ということになる……」(p.262)。

「技術の行使というのは、存在することも存在しな/いことも可能な事物、そしてその原理 がつくる人の側にあって、つくられる作品の側にはないような事物、そうした事物がどのようにすれば生じるのかを『理論的に考察する(テオーレイン)』こと を基礎とする」(pp.262-263)。

アリストテレスがもしこの場にいたなら?一度、我々の社会にあるハイテク・オートメー ションの工場へ連れていきたいものである。

(ii)おこなわれるもの=行為=プラークシス

ロゴスをそなえた、行為にかかわる魂の状態。思慮との関係を示唆。

In the variable are included both things made and things done; making and acting are different (for their nature we treat even the discussions outside our school as reliable); so that the reasoned state of capacity to act is different from the reasoned state of capacity to make. Hence too they are not included one in the other; for neither is acting making nor is making acting. Now since architecture is an art and is essentially a reasoned state of capacity to make, and there is neither any art that is not such a state nor any such state that is not an art, art is identical with a state of capacity to make, involving a true course of reasoning. All art is concerned with coming into being, i.e. with contriving and considering how something may come into being which is capable of either being or not being, and whose origin is in the maker and not in the thing made; for art is concerned neither with things that are, or come into being, by necessity, nor with things that do so in accordance with nature (since these have their origin in themselves). Making and acting being different, art must be a matter of making, not of acting. And in a sense chance and art are concerned with the same objects; as Agathon says, ‘art loves chance and chance loves art’. Art, then, as has been is a state concerned with making, involving a true course of reasoning, and lack of art on the contrary is a state concerned with making, involving a false course of reasoning; both are concerned with the variable.

◆ 暫定的結論:

実践知(=思慮)は、全体について考える、思慮ある人の、考え行っている状態のなかにある、 あるいはそのような行為の状態そのものをさすのではないだろうか。なぜ行為実践の中にあるかというと、それは「他の仕方ではありえる」ものに関わるから だ。

だからアリストテレスは次のようにいう。

「思慮とは、人間にとっての善悪にかかわる行為を行うところの、道理をそなえた、魂の『真な る状態(ヘクシス[hexis]・アレーテス)』 である、ということになる」(1140b)朴訳p.265

ヘクシスとは、後天的に獲得される行為遂行能力のことである。

「『思慮』は行為にかかわるのである。したがって『思慮』は、普遍的知識と個別的知識の両方 をそなえていなければならない」(1141b) p.273

● 善き行為(エウプラークシアー)そのものが、行為の目的になる(思慮ある状態にあるときに は・・)

● 技術には徳があるが[=技術の行使には、そのための徳が必要だが]、思慮(実践知)にはそれ の徳がない 。1140b, p.266

→この言明はちょっと奇妙だが、思慮そのものが徳である、ないしは徳のひとつであると、すぐ に、彼は付け加えている。つまり、思慮は(理性をもつ2つの部分のうち)「思いをなす部分(ドクサスティコン)」の徳である pp.266-267。

● 知性との対比のなかで、思慮の一般的性格を浮かび上がらせる(1141b)

「『思慮』は、人間的な事柄にかかわり、熟慮の対象となるものごとにかかわる」p.272

「無条件によく熟慮する人とは、行為において達成されるところの、人間にとって最善のもの を、理知的な思考に基づいて目指す人のことである」ibid.

「『思慮』は行為にかかわるものであって、行為は個別的な事柄にかかわる」ibid.

● 統括的なもの(アルキテクトニケー)=政治に関わる思慮つまり政治術ないし政治学

「『思慮』は行為にかかわるのである。したがって『思慮』は、普遍的知識と個別的知識の両方 をそなえていなければならない。だが、この場合にも何か『統括的なもの(アルキテクトニケー)』が考えられるだろう」(1141b) p.273

● 思慮という共通の名前

「一人の人間自身にかかわる思慮が、とりわけ思慮であるとも考えられる。そして、個人にかか わる思慮が『思慮』という、全体に共通の名前をもっているのである。他方、個人に関わらない思慮のうち、その一つは『家政術(オイコノミアー)』である が、他は『立法術』であり、『政治術』である。そして、『政治術』はさらに二つに分かれ、そのうちの一つは『審議術(ブーレウティケー)』であり、他の一 つは『司法術(ディスカスティケー)』である」p.274。

→思慮=実践知としてのディスカスティケー(司法術)という言葉をここで聞くと、文化人 類学者ならば、C・ギアーツのローカル・ノレッジのことを思い出さざるを得ない。

◆ ローカル・ノレッジとい う隠喩の分析
◆ ローカル・ ノレッジ
● 加齢と思慮を身につけること

(i)思慮は、個別な事柄からなる。(ii)個別な事柄は、経験から知ることができる。 (iii)若者には経験がない。(iv)若者やこどもは、思慮をつけにくい。(1142a)p.276。

● 思慮は知識(エピステーメー)ではない!

「思慮が学問的知識ではないことは、明白である。……思慮は『最終的なもの(エスカトン)』 にかかわるから」p.277

● 理解力との対比によって明らかになる思慮

「『理解力(シュネシス)』というのは、つねに存在する不変のものにかかわるのでもなけれ ば、何か生成するものごとにかかわるものでもなく、人が疑問を感じ、熟慮する可能性のあるものごとにかかわるからである。それゆえに、『理解力』は思慮と 同じ対象にかかわるが、しかし『理解力』が思慮と同じものというわけではない。」

「思慮は『指令的なもの(エピタクティケー)』だから……。人に何をなし、何をなすべきでな いかを指令することが、思慮の目的なのである。それに対して、『理解力』の方は、単に『判断的なもの(クリティケー)』であるにすぎない。……『理解力』 とはしかし、『思慮』をもっていることではなく、またそれを手に入れることでもない」(1143b, p.282)。

● 思慮=実践知とは、知ることではなく、おこなうことにある

「『思慮』というのは人間にとってもろもろの正しく、美しく、よい事柄にかかわるものである にしても、そうした事柄は、善き人が、実際に行うべき事柄なのであって、そもそもさまざまな徳が、行為を実現するための状態であるとすれば、単にそうした 事柄を知るだけでは、われわれがそれによっていっそうよく行為できるようになる、という保証は全然ないからである」(1143b, p.286)。

※【復習】

思慮=実践知が、魂の理知的部分(ロギスティコン)ないしは思いなす部分の徳である一方、知 恵(ソピアー)は知識的部分(エピステーモニコン)の徳である。第6巻1章と5章を参照せよ。

● まとめにならない[=相互に矛盾する?]まとめ(1144a, p.288)

(i)知恵も思慮も何もつくりださないけれど、それ自体では望ましいものである。

(ii)知恵も思慮も何かをつくりだすが、それは医療が健康を作り出すようなことではなく、 健康が健康をつくりだすようにである。

(iii)人間のはたらきは、思慮および〈性格の徳〉により果たされる。徳は目標を正しく し、思慮はその目標のための物事を正しいものにする。

● 才能(デイノテース)について

「『才能』というのは、設定された目標に寄与する事柄を行い、その目標を達成するような能力 のことである。そこでもし目標が美しければ、『才能』は賞讃されるが、しかし目標が低劣であるなら、その『才能』は単なる『狡猾(パヌールギアー)』にす ぎない。それゆえに、われわれは思慮ある人たちでさえも、『才能』があるとか『狡猾』であると言うのである」(1144a, p.290)。

● ソクラテスの誤り方から、思慮のあり方について知る

「ある人々はあらゆる徳は思慮であると主張しており、またソクラテス[→プラトン『メノン』 88A-89A]はある点では正しく探求していたが、ある点では誤っていたのである。というのも、徳はすべて『思慮』であると考えていた点で、ソクラテス は誤っていたけれども、『思慮』なしには徳はありえないと言っていた点では、彼は正しかったからである。……徳とは単に『正しい道理』に基づく状態ではな く、『正しい道理』をそなえた状態こそが、徳だからである。そして、徳の事柄に関する/『正しい道理』とは、『思慮』にほかならないのである。かくして、 ソクラテスはさまざまな徳はもろもろの『道理(ロゴス)』であると考えていたが(彼によれば、すべての徳は知識だからである)、それに対してわれわれは、 徳とは『道理』をそなえたものであると考える」(1144b, pp.292-293)。

● 思慮なしには徳はありえないが、また思慮=実践知だけがすべてではない!

「『思慮』は『知恵』を支配するのではなく、また魂のよりすぐれた部分を支配するわけでもな い……。それはちょうど、医術が健康を支配するものでないのと同様である。なぜなら、医術は健康を用いるのではなく、健康が生じるようにはからうものだか らである。それゆえ、医術は健康のために指令するのであって、健康に対して指令するわけではない」(1145a, p.294)。

● 徳の2つの分類(1103a, pp.53-54)

(i)思考の徳(ディアノエティケー・アレテー)

知恵(ソピアー)、理解力(シュネシス)、思慮(プロネーシス)

(ii)性格の徳(エティケー・アレテー)

気前の良さ(エレウテリオテース)、節制(ソープロシュネー)

「われわれは知恵のある人も、その人の魂の「状態(ヘクシス)」に基づいて賞讃するのであ る。そしてわれわれは、人々のさまざまな魂の状態のうち賞讃に値するものを、徳と呼んでいるのである」(p.54)

● まとめ

解説 comment

アリストテレスの著作理解の困難さをジェームズ・O・アームソンは次の3にまとめている。ひ とつは、アリストテレスの生きていた時代の概念や生き方が我々のものとは根本的に異なるものであるという「異文化」ないしは「文化の相違」に由来するも の。2番目は、翻訳の問題で、これは、ローマ帝国の人たちがギリシャ語を理解する時に自分たちの文化概念にもとづいて翻訳している。したがって、この問題 は最初の困難と関係しており、我々はギリシャ語と、それを解釈するラテン語の翻訳から影響をうけ混乱している可能性があるという。そして、三番目はこと 『ニコマコス倫理学』に関しては、首尾一貫し完結した本というよりも、アリストテレスが講義のための準備したノートのような著作だというのである(これは 現代の我々が、ルードウィヒ・ウィトゲンシュタインが生前に出版せず、学生の講義ノートと彼自身の膨大なメモ下書きなどを手がかりに、LWの思想を理解し ようとしていることに似ている)。

ニコマコス倫理学の5,6,7巻は、エウデモス倫理学の4,5,6巻と同じで、前者はもとも と『エウデモス』由来のものであると推測されるとアームソンは指摘する(翻訳 p.10)。

●ジョン・ロールズの2つの原理(出典:ウィキペディア「正義論 (ロールズ)」)

第1原理:「政治的自由や言論の自由、身体の自由などを含む基本的諸自由を全員に平等 に配分する」
第2原理
「社会的または経済的な不平等を機会の均等を図りながら、最も不遇な人々の利益を 最大化する(機会均等原理)」
「果的に発生した社会的・経済的不平等に対しては、最悪の状況は可能な限り改善す る(格差原理)」
文献

アリストテレス『ニコマコス倫理学』朴一功 訳、京都:京都大学学術出版会、2002年
アームソン、J.O.『アリストテレス倫理学入門』雨宮健 訳、東京:岩波書店、2004年
荒木勝「アリストテレス政治学における知慮(フロネーシス)の位相」『思想』1006号、 Pp.57-83、2008年、はこのページを制作してのちに見た文献だが、アリストテレスのフロネーシスの概念をめぐる多様なあり方を指摘した点(ただ しアリストテレスという作成者のある人格を体系や統一のもとに読みとろうとするプロクルステス的欲 望はいただけない)や、現代の思想家が実践概念をある一定の読み方をしていることを示唆した点で興味深い。
岩田靖夫『アリストテレスの倫理思想』岩波書店、1985年
出典:http://www.cscd.osaka-u.ac.jp/user/rosaldo/061113prone.html

知の理論: Studies on the Theory of Knowledge, TOK

大佛次郎記念館にて

はじめまして!垂水源之介です!

01:「知の理 論」あるいは「知識の理論」(Theory of Knowledge) とは、国際バカロレアの学士入学(ディプロマ; baccalaureate とはフランス語で学士号の意味)プログラムにおける必修科目のことであり、それ以外の認証システムにおける大学では、通常「認識論」や「認識論入門」に相 当す るものである——正式な日本語訳は「知の理論」。知とはプラトンによる「知的」伝統を汲み「正当化された真なる信念」のことである(『テアテイトス』『メノン』)。

国際バカロレア機構(本部ジュネーブ;1968- )が提供する 国際的な教育プログラム。国際バカロレア(IB:International Baccalaureate)は、1968年、チャレンジに満ちた総合的な教育プログラム——初学(PYP)、中期(MYP)、大学入学資格 (DP)、 キャリア(CP)の四資格がある[引用者]——として、世界の複雑さを理解して、そのことに対処できる生徒を育成し、生徒に対し、未来へ責任ある行動をと るための態度とスキルを身に付けさせるとともに、国際的に通用する大学入学資格(国際バカロレア資格)を与え、大学進学へのルートを確保することを目的と して設置」文科省

ディプロマ・プログラムは6教科からそれぞれ1つの 科目選択する(例外として「芸術」から1科目選ぶ代わりに他の教科で2科目選択も可能)。3〜4科目(上限)を上級レベル(HL)、それ以外を標準レベル (SL)と称する。IB(国際バカロレア)では、HLの科目に240時間、SLに150時間を割り当てることを推奨している。

ウィキ(日本語)が解説するその教育水準のスタン ダード化のエピソードが面白い:「国際バカロレア(IB)は当初、世界各国から人が集まる国際的な機関や外交官の子供が母国での大学進学のため、様々な国 の大学入試制度に対応し、1つの国の制度や内容に偏らない世界共通の大学入学資格及び成績証明書を与えるプログラムとして開発された。その目的を、より良 い平和な世界を築くために貢献する人材育成としており、その教育プログラムの特徴として「全人教育」を掲げている。」国際バカロレア

また文科省は、グローバル人材育成の観点から、我が 国における国際バカロレア (IB)の普及・拡大を推進しているが、その背景には、日本人(専門家たち)による日本の大学の国際化/グローバル化対応の資質にそれほど期待し ているように思われる。そのため、EUですでに定評のある国際バカロレアのついて、まず手っ取り早く速習する必要性を感じているように思われる(→文科省 「国際バカロレアについて」)。

フランスのバカロレアつまり「大学入学資格試験」試験については、私の授業「大人のための知の理論=TOK(対話術F)」で一部解説とリンクがあります。ご参照ください。

コンテンツ制作の原則1.0

これからコンテンツを投入するわけですが、いくつかの基準を考えておきます。

原則1 構造的な枠組みを作るためのページは固定ページにします。サイト内の位置関係などの設定が必要で、メニューに登録することが必須です。

原則2 テーマが明確なページは、すべてブログ投稿にします。カテゴリーとタグを設定しておけば、カテゴリーメニューとタグクラウドから自動的にリンクされます。また投稿ページの下の方に関連するページが自動的に表示されるようにしてあります。特にナビゲートリンクをつける必要はありません。

原則3 イケペディアとソキウスから移築するときは、当該ページにカーソルを当てた上で「すべてを選択」します。それをそのままコピーするだけで画像もリンクもコピーできます。スタイルを変える必要はありません。そのあと、付属のリンクなどを削除して、なるべくシンプルにしてから公開します。

原則4 すでにGoogle翻訳を装備しています。機械翻訳しやすいように文章構造をシンプルにしましょう。複文は解体します。

原則5 移築作業が進むとiCD内でのリンクに遷移していきます。なので参照リンクは削除しておいた方が賢明です。

原則6 メッシュにするためにも、長いページは小分けしておく方があとあと便利です。ナビゲーションラインを提示するときも、細かく調整して提示できます。

以上の原則はプロジェクトの進行状況に従って随時変更可能とします。そのつどヴァージョンを上げ、日付を明確にして、共有します。

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池田光穂(大阪大学COデザインセンター教授)と野村一夫(国学院大学経済学部教授)の共同研究の一環として

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